「良き牧者なるイエス」 ヨハネ10章11〜18節
イエス・キリストの教説に登場する「羊飼いと羊」「農夫とぶどう園」などは、イスラエルの人々にとってはとても身近な題材であり、
「神とイスラエル民族」を例証するものとして旧約聖書にもよく出てきます。
高橋三郎氏は、11節を「わたしがよい羊飼である」(「わたしこそ・・・」の意味)と訳しています。
それは、良くない羊飼い=羊に心をかけず、自分のことだけを考える雇い人のような羊飼いの存在(12〜13節)を匂わしています。
エゼキエル34章では、神から民を託されたイスラエルの指導者たちが、
「自分自身を養うイスラエルの牧者」(エゼキエル34章2節)と呼ばれ、叱責されています。
そして神は、「わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」(34章11節)と宣言し、ひとりごのイエス様をお送りくださいました。
その「よい羊飼」であるイエス・キリストは、「羊のために命を捨てる」(11節)お方です。
私たちのために、ご自身の生活を捧げ、生涯を賭けて、最後には、文字通りいのちをも捨てて私たちを罪から救い出してくださいました。
イエスの死は、彼に敵対する人々の計画や時代の流れの中でそうなってしまったものではなく、神のご計画によるものでした(18節)。
ヨハネ10章のイエスの言葉は、生まれつきの盲人の癒し(9章)の流れの中から出てきました。
そこには癒された人とともに、イエスの敵対者や、彼らに気遣って明確な信仰を持つことができなかった盲人の両親がおり、騒然とした状態でした。
にも関わらず、イエスはいつものようにいのちに溢れ、その心は静かに神と結びついていました。
それは、常にイエスが神とのいのちの関係、愛の関係の中にいたからです。
そしてそれと同じように、私たちもイエスとのいのちの関係、愛の関係の中に導かれています。
また、「この囲い」(16節)とは本来ユダヤ民族のことですが、今日的には教会のことを指しています。
異邦人であった私たちが「わたし(=キリスト)の声を聞き分ける」(16節・新共同訳)ことができるように、
やがて、私たちの家族、友人、多くの神を知らない人々も、キリストの声に聞き従い、神のいのちに生きる者とされる日が来ます。
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